第15話
にわかに外が騒々しくなり、ファーナは目を覚ました。ひと伸びして、ベッドから降りる。目をこすりながら部屋から出ると、ラークが一人テーブルで紅茶を飲みながら何かの本を読んでいた。
「起きたか、ファーナ」
「…先生、自分の家のようにくつろいでるね…」
ファーナはラークのマイペースさに半ば感心した。ふと、ラークの読んでいる本の表紙に目が行った。
「…『水神さまの恩返し』…?何それ、絵本?」
ラークが読む手を止め、表紙をぱたりと返した。
「そこにあったから暇潰しに読んでいただけだ。…だが、絵本だからと言って馬鹿にするものではないな。この地方の水神信仰の根本を成すものとして、学術的に有益な書物と言える」
「もう、先生は何でもそうやって研究に結び付けるんだから…」
ファーナは呆れながらもラークの傍に行く。しかしラークは全く気にしていない様子だった。
「面白いぞ。お前も読んでみるか?」
ラークはファーナに絵本を差し出した。ファーナはそれを受け取って中身に目を通す。読み終わるのにそれほど時間はかからなかった。
「恵みと試練をもたらす神様に感謝…。水神さまはその信仰心への恩返しとして、いつまでもこの地を護ってくださる…か。小さい子はこれを読んで、水神さまへの信仰を覚えていくんだね」
天教にも似たような絵本がある。小さい頃に読んだことをファーナは懐かしく思い出した。
「あ、そうだ、外が何かにぎやかだけど」
二人は扉の方を見た。時刻は恐らく昼前。本隊が帰ってきてもいい頃合なのだろうか。多くの人の話し声が聞こえる。
「…まあ、何かあればシジェかオーガスが呼びに来るんだろう。それまでは休んでいてもいいだろう。…お前の分も淹れるぞ」
「うん」
ファーナは椅子に座り、ラークが淹れた二番煎じの紅茶を飲み始めた。暖かさが妙に胸に沁みる。あまり嗅いだことの無い甘い香りだが、心が落ち着く気がした。
「…これ、どこの葉なのかな」
「それが、私にも解らない」
「ええーっ?紅茶マニアの先生でも解らないの?」
ファーナは心底驚いた顔をした。
「…お前…。人が誤解するようなことを」
ラークの言葉は、扉を叩く音によって遮られた。二人が音のした方を向く。
「すみません、皆さん起きてますか?」
シジェの声だった。扉に近かったファーナが向かい、少しだけ開けてシジェに対応しようとした。
「全員ではないけど…」
ファーナは外を見て言葉を詰まらせた。シジェの後ろに、深い藍色の髪と目を持つ美青年が立っている。上背があり、精悍な顔つきをしている。
「…あ、えっと、お頭が自分から出向いてお話したいっていうんで…」
シジェが申し訳なさそうに頭を掻く。ファーナは青年から目を離せないでいた。青年と目が合うと、ファーナは何故か照れてしまい、顔を真っ赤にした。
「あ、あの、皆起こしてくるのでちょっと待っててくださいっ!ほんと、すぐですから!」
バタンと勢いよく、ファーナは扉を閉めた。その態度にラークが驚いた。
「…どうした?」
「あ、あの、お頭さんがわざわざ出向いてきて…二人起こさなくちゃ」
そそくさとファーナは奥の部屋へと急ぐ。まだ顔が熱い気がする。
「おい、変な顔してどうした」
突然、寝ていたと思っていたカティスに声を掛けられて、ファーナはビクリと身体を震わせた。顔が引きつっているのを、ファーナ本人は気づいていない。
「かっ、カディ…起きてたの」
「今さっきな。お前の声で起きたよ」
「私もです、姫」
音も無く、ダタが後ろから現れた。
「わあっ…!びっくりさせないでよっ」
2人が起きたことを確認して、ラークが声を掛ける。
「じゃあ、いいな?入ってもらっても」
ラークが扉を開ける。入ってきたのはシジェとオーガス、先程の青年と二十代後半の黒髪の長い女性だった。青年だけが椅子に座り、その傍に女性が、海賊とファーナ達の間にそれぞれ、シジェとオーガスが立つ格好になった。青年の向かいにファーナとラークが座り、後ろにカティスとダタが立っている。
「おれはラズリという。一応…ここの集団の長をやっている。隣は副長のミランダだ。シジェとオーガスを助けていただき、恩に着る」
美しいテノールの良く通る声だ。ファーナはほう、と感心したような溜息をついた。が、すぐにふるふると頭を振った。
「いえ、こちらこそ、危ないところを救ってくださってありがとうございます。私はファーナ。隣がラーク、で、後ろの二人がダタとカディです」
自己紹介もそこそこに、ラズリは交渉に入る。
「詳細は二人から聞いている。何でも、フォーレスに渡りたいとのことだそうだが」
「ええ。リクレアではどこも船を出してくれなくて…取り敢えずシャクーリアまで行ってみようと思ったのですが」
ラズリはファーナのその言葉を聞いて身を乗り出す。
「そこでだ。取引しないか?おれ達なら、フォーレスへ行ける手段がある。君達をフォーレスまで安全に送り届ける代わりに…おれ達の手伝いをして欲しいんだ」
「やはりそう来たか。それで、その手伝いの中身は」
驚く様子も無く、ラークが冷静に返す。するとラズリはためらい無く言い放った。
「…シャクーリアの王政を倒す」
「なっ!」
4人が全員驚きの声を上げる。目の前の海賊は、とんでもないことを言っている。
「そ、そんなこと姫にはさせられません!」
ダタが思わず声を上げる。それをファーナが手を伸ばして静止する。
「ダタ、黙ってて。…シジェが昨日話していたことを考えれば、そういう計画があってもおかしくないわ」
ミランダがこくりと頷く。
「私達は、シャクーリアの人々を圧政から救い出すことを目標にして動いているの。海賊稼業をして商船を襲ったって、もう何の解決にもならない…」
ミランダのか細い声が、今にも消え入りそうだった。その後を受けるようにして、今度はラズリが発言する。
「今のシャクーリアはツイードという少年王が形式上治めているが、実権はその母リーテルが握っている。リーテルは熱心な天教信者でね、元々あった水神信仰を野蛮だなどと言って弾圧し始めたのさ。おれは元からここで海賊をやっていたが、ここにいるミランダ達なんかは追い出された口でね。流石におれも故郷の危機だと思った訳だ」
「それでは、この海賊団は差し詰め祖国解放軍と言った所か」
ラークの言葉にオーガスが答える。
「シャクーリアではそう言う者もいるな。俺やシジェは、そんな噂を聞きつけて、ここに加わった」
「ふうん…」
ラークが腕組みをして唸る。ちらっと左に座っているファーナを見やる。ファーナの目は真剣そのものだった。
「…少し、時間をくれませんか?皆と相談してから決めたい…。それに、私は」
ファーナは下を向いた。もどかしい気持ちで胸がいっぱいになる。
「おれ達も、すぐに答えてくれとは言わないよ。君は…天教教主国の姫だ。おれ達の頼みは、自分の信条に歯向かってくれと言っているようなものだからね」
がたりと音を立てて、ラズリは立ち上がった。
「決まったら、おれの屋敷に来てくれ。すぐ右隣だから分かるはずだ。できれば、今日中に回答が欲しい。頼む」
一礼をして、4人は外へ出た。しんと静まり返ったその場を、カティスが一つ大きな溜息をついて破った。
「で?どうしたいんだ?姫さんは。まあ、聞くまでもないが」
3人がファーナを見つめる。カルディアの姫であることと、自分の気持ちがせめぎあっていた。しかし、その迷いもすぐに晴れた。
「…私は、お手伝いしたい…。同じ天教徒だからって、やっていることが間違っているなら、擁護するわけにはいかないよ…でも」
ファーナがダタを見やる。
「…いえ、姫のお好きになさってください。私は見守っているだけですから」
ダタは覚悟を決めたようだった。ファーナはカティスとラークを順に見て、顔色を伺う。
「フォーレスに渡る手段がシャクーリアにある確証はないからな。確実性を求めるなら、彼らの駆け引きに応じたほうがいいだろう。…お前もそれでいいだろう?」
ラークはカティスに伺う。
「ああ。面倒だが、それが一番だな。…じゃあ、さっさとラズリのとこに行ってこいよ」
ファーナの顔が明るくなる。
「うん、ありがとう!じゃあ、行ってくる!」
そそくさと、ファーナは建物を出た。後に残った三人は、しばらく無言のままでいたが、ぽつりと、ダタがこぼした。
「…大丈夫でしょうか…。本国に知れれば、姫は…」
「大丈夫ですよ、ダタ殿。天教が野蛮な宗教ではないと、姫自らが正しに行く…。理由は立ちます」
ラークが涼しげな顔で答える。その言葉にダタは、はぁと小さく納得したような声を出した。カティスは一人、ラークの屁理屈に自嘲じみた笑みを浮かべていた。
外に出たファーナは、来た時と比べ物にならない人の多さに一瞬面食らった。海賊のアジトと言うほど、荒くれがいるような雰囲気ではなかった。およそ戦うということからかけ離れた主婦や子供たちが多く、まるで一つの街にいるかのような気分を覚えた。興味深そうに自分を見る通行人の視線に気がついて、ファーナは慌てて目的の場所を探す。
「…えっと、右の建物…」
ふと右の建物に目をやると、オーガスがその扉の前に立っているのに気が付いた。オーガスもファーナに気づいて、目配せをする。小走りにファーナはオーガスの元へ駆けた。
「早かったな。俺達出てまだ少ししか経ってないぞ?」
「ええ。殆ど決めていたから」
オーガスが扉を開けて、中へと誘う。数人の男性が、図面を手にあれこれと話をしているのが目に入る。広い部屋を突っ切ったその奥の部屋の手前で、オーガスは止まって扉を叩く。
「お頭、姫さんお連れしました」
扉の向こうから、承諾の返事が返ってくる。オーガスが扉を開け、ファーナを中へ促す。雑然と物が氾濫する机の向こうに、ラズリとミランダが待っていた。更にその後ろには、胴の長い蜥蜴のような生き物が描かれたタペストリーが掛けられている。
「殆ど答えは決まっていた、ということかな?」
入るなり、ファーナはラズリに答えを求められた。
「ええ。…私、お手伝いしたいと思います」
ミランダが驚いた表情をする。対してラズリは満足そうに頷いた。
「いいの?国に知れれば大変なことに…」
「いいんです。…大きな声では言えないんですけど、実はもう、大変なことして国から出てきたんで」
乾いた笑いをファーナは浮かべた。事情の分からないラズリとミランダが、互いに顔を見合わせる。
「…まあ、詳しい話は聞かないさ。今は、本懐を遂げるために最善を尽くすのが先だ。…無茶な申し出、受けてくれて感謝する」
ラズリが頭を下げる。それを見て周りに居た者も頭を下げた。
「い、いいんです!お気になさらないで…。あ、あの、気になってたんですけど、ラズリさん」
「?」
「後ろのタペストリーって…」
ファーナが奥を指差す。その方向にラズリとミランダは振り向いた。
「水神さまの御姿と伝えられているものよ。…そうね、竜と姿形は似ているのかしら。海に棲み、この世界を巡り、時には凪ぎを、時には嵐を呼ぶという…。シャクーリアは海の国だから、有史以前からこうして奉っていたの」
ミランダが節目がちに説明する。
「もし、水神さまが本当にいたとしたら、この今の状況をどう思われているのかしらね。水神さまにしてみれば、人の歴史など一瞬のこと…。結局は、私達人の間の諍いだけに過ぎないのかしら」
「ミランダ」
ラズリが嗜めるようにミランダの名を呼ぶ。ミランダはあっと小さく声を出した。
「ごめんなさい。私ったら、弱気なこと言って…」
ファーナが首を振った。
「きっと、見ておられます。だから、もうすぐ王政を倒すってところまで来れたんじゃないかなって、思いますよ」
ミランダが目を見張り、ふっと笑みを浮かべた。
「そうね…。ラズリや貴女と出会えたことも、きっと水神さまのお導きね…。ありがとう、姫」
そうと決まると、ラズリの行動は早かった。恐らく、シジェやオーガスから報告を受けた際に既に大筋を描いていたのだろう。ファーナと共に、再び隣の屋敷へと向かった。
「…承諾したと同時に作戦会議か」
ラークですら感心したように溜息をついた。ラズリは、シャクーリアの都の地図をテーブルの上に広げ、ペンの先で奥側の市外部分を指した。
「船はここの守備が薄いこの岸に着ける。協力者がいてな、その人物の家に続く地下道の入り口がこの森にある」
街の一角に、ラズリはペン先をすっとずらす。本通りからは少し外れた仲通にあたる。
「ここがそこだ。二つに隊を割き、一方は街中で騒動を起こし、その間に城を占拠する」
そこまで言って、ラークが口を開く。
「侵入作戦の基本だな。何のひねりも無い。…それに、騒動を起こして兵と衝突し、市民に犠牲が出るのは君達の本懐ではないのでは?」
「そのとおり。そこで協力してもらいたいのが、…貴方だ、ラーク殿」
ラークが顔をしかめる。
「貴方には先に城に入ってもらい、リーテルを誘き出してほしい。…貴方なら、周遊の旅と言えば、どの国でも要人に目通りは叶うだろう?『光の貴公子』殿。そうすれば城の占拠もすぐに済む」
茶化すようにラズリは言った。
「それなら私が」
「姫は国元に知れるとまずいだろう?」
ファーナの申し出を、ラズリは一蹴した。
「…でも、変装しておれの傍にいる程度ならいい。…よく見ておいてほしいからな。民から絶望された国の末路を」
ファーナは一瞬、寒気を覚えた。自分がこうして討伐される側になる可能性だってあるのだ。
「…解ったわ。よく…見ておく」
満足そうにラズリは頷き、次にカティスとダタに視線をやる。
「カディ殿…と言ったか。貴方には城の地下へ、ミランダと行って貰いたいのだが」
その言葉に、ファーナが小さく、えっと声を漏らした。
「水神の神殿へ。おれ達が取り戻すべきは、信仰だからな。恐らく厳重に見張られている筈…。貴方ほどの手練がいれば、難なく目的地に辿りつけるだろう」
意味深な笑みをラズリは浮かべている。それにカティスは何かが引っかかった。
「ダタ殿はシジェと共に行動して貰いたい。各所の連絡調整だ」
「は、はあ…」
ダタはまだ心のどこかで納得していないようだった。渋ったような声で返事をした。
「…それでは、城と神殿を占拠するのが目標ということだな。…それも、市民の犠牲を出さずに」
ラークが確認をする。
「ああ。出発は明日の昼前。明後日の夕方頃にシャクーリアに着く計算だ。それまでに、準備をお願いしたい」
それだけ告げて、ラズリは退出した。
夜になり、室内はしんと静まり返っていた。先発隊のダタとシジェ、正規の船でシャクーリアへ向かうラークを見送って、ファーナとカティスは久々に二人きりとなってしまった。
居間ではカティスが暇そうに本を眺めていた。椅子の前脚を上げ、背もたれに体重を預けながら、両足をテーブルに掛けている。そこに、一度寝室に篭ったはずのファーナが現れた。
「カディ…うわ、行儀悪っ」
カティスは本から目を離してファーナの方をちらりと見やる。手には小さなノートとペンを持っていた。
「うっせーな。誰かが見てるわけでもねーだろ」
「誰かが見てる見てないの問題じゃないわよ。…まあいいや、教えてほしいことがあるんだけど」
にっと笑ってファーナはカティスの傍に立った。迷惑そうな表情をカティスは浮かべた。
「何だよ」
「『時空術』。こないだ教えてくれるって言ってたじゃない」
「…あー…」
天井を向いてカティスは嫌そうな声を挙げた。その拍子で、体重が背に掛かりすぎたのか、そのまま椅子ごと後ろに倒れてしまった。
「っ…てぇ…」
「何よ。この前の言葉、ウソだったの?」
そんなカティスを心配することなく、ファーナはカティスを見下ろして憤る。その表情をカティスは少しの間、見つめる。紅い、燃えるような瞳に宿る光――覚悟の程が感じ取れる。ゆっくりと身体を起こしながら、カティスはファーナに向き直った。
「わーったよ。…ただ、一つだけ約束しろ。この先、その所為で何が起きても後悔だけはすんなよ」
その言葉に、ファーナの表情が明るくなる。
「やったあっ!ありがとう!後悔なんてもう腐るほどしたから大丈夫!」
「…腐るほどしたって、これからはしないなんて事はねーだろ…」
カティスのツッコミが聞こえなかったのか、ファーナはうきうきしながらテーブルにつき、ノートを開く。その様子を見て、カティスは溜息を吐いて、複雑な気持ちを抱く。
(…ま、覚悟を決めるのは、俺の方、なんだろうけどな…)
16話