第9話



 鳥の鳴き声、階下からの炊事音――

 懐かしい音に気がついて、ファーナは目を覚ました。
「ん…」
 まだ意識がはっきりしない。身体がだるくて、寒くて熱があるのだけは、何となく分かる。
「ファーナ、入るね」
 オルバの声だ。返事をする間もなく、彼女は部屋に入ってきた。手元には、水が入っているらしい桶とタオルがあった。
「…オルバ、私」
「あ、起きた?よかったぁ。でもまだ熱とかはあるっぽいね」
 オルバが手を額に当ててきた。冷水でひんやりとした手が気持ちいい。
「うん、あるね。今日は絶対安静。やっぱり疲れてたんだね、きっと」
 オルバはサイドテーブルに桶を置き、ベッドの横の椅子に座った。額に乗せてくれた、柔らかめに絞ったタオルの冷たさが肌に染みる。
「あ、えっと、私…どうして風邪ひいて寝込んでるんだっけ?」
「え?何か記憶飛んだりしてるの?昨日魔獣の毒受けて、ラーク様に解毒の術掛けてもらったんじゃない。毒は抜けたと思うけど、風邪引いちゃってるって、ティオが言ってた」
 その言葉で思い出す。昨日、必死でラークの元に駆けていったことを。思い出すと同時に何故か恥ずかしい気持ちになった。
「…そ、そうだった、ね」
「よろしい。で、ご飯どうする?お粥でいいよね?ティオが薬作っておいてくれたから、飲む前に何か食べないと」
「う、うん。それでいい…」
 オルバは椅子から立って、出口に向かう。
「んじゃちょっと待ってて。…あ、そうだ。カディさん、だっけ、外に出るって言って行っちゃったから」
 そう言って、オルバはパタパタと足取り軽く階下へと降りていく。「カディさん」という呼ばれ方に、ファーナはふっと吹き出してしまった。


 休日の博物館は、普段よりも客が多い。二日前から始めた企画展示は評判が良く、学生中心に賑わいを見せている。
 コリィは遅い昼休憩の途中に、人がまばらな常設展示室に足を運んだ。エルガードに行くなら、一度は見るべしと名高い『天使』の絵――。コリィも初めて見た時から、不思議と気に入ってしまっていた。単純で、素朴なのに、何故か哀愁を誘う。時間があると見に行くことが多かった。

「あれ?」
 絵の前に先客がいた。絵の劣化を抑えるために、室内をやや暗く調整しているが、その人物は何故か柔らかな光を纏っているように見えた。
「…カディさん?」
 絵を食い入るように見ていたその人物に声を掛ける。本当に集中していたのだろう、はっとしてこちらを振り返った。
「…ああ、コリィ…だっけ?」
 昨日、ラークと一戦交えていた人物。「昔世界を滅茶苦茶にした」などと言われても、コリィには全く実感が湧かなかった。この博物館を手伝いに来る年上の学生達と何も変わらない、ごく普通の青年に見える。
「はいっ。覚えててくれたんですね、嬉しいです」
 だから受け答えも普通にする。一瞬、向こうは迷惑そうな顔をしたが、それもすぐに諦めたのか、真顔に戻っていた。
「ファーナさんは、元気ですか?」
「ああ。直に良くなるってよ」
 多少言葉がぶっきらぼうだが、答えないわけでもない。目線を絵に戻したのを見て、コリィは良くある質問をした。
「…この絵、気に入ったんですか?」
 ちらと横目でカティスがコリィを見る。その視線の鋭さに、コリィは一瞬びくりとしたが、また絵の方を向いて、静かに口を開いた。
「…気に入る…ってのは違うな。ただ、虚しいだけだ」
 その言葉と表情に、コリィは言葉を失った。この絵の向こうの、遠い何かを見つめて、儚んでいるような表情。自分が抱いた気持ちよりも重く深い何かが、彼の心の中にあるように思えた。次第に、居たたまれない気持ちになって、一歩、後ろへ下がる。
「…あの…私、そろそろ行きますね、ごゆっくりどうぞ」
 そう告げて、コリィは逃げるようにその場を立ち去った。


 メアリー特製のスタミナ粥を食べ終え、ファーナはオルバと二人で他愛も無い話をしていた。
「そういやさ、何でカルディア出ちゃったの?ヘディン様と喧嘩でもしたの?」
 オルバの唐突な質問に、ファーナはドキリとする。
「ん、ま、まあ、そんなところ…かな?だから、家出」
 親しくしていたオルバにまで嘘を吐くのは心苦しかった。しかし、本当のことを話すわけにもいかない。
「そっか…。てっきりあのカディさんと駆け落ちとか思ったから」
 そんな嘘も吐いたことがあったな、と大した昔のことでもないのにファーナは懐かしむ。が、ここはその嘘を吐く方がかえって危険だとすぐに判断した。
「そ、そういう関係じゃないよ。ええと…危ないところを助けてもらったの」
 当たり障りの無い答えを、ファーナは取り繕った。オルバは納得したのか、ふーん、と声を上げる。
「そうだったんだ…。でもさ、昨日も随分必死だったじゃない?着替えもせずにさ。だから、もしかしてって思ったんだけどっ」
 オルバは少し顔を近付けてニヤリと笑う。その勢いに押されて、ファーナはたじろいだ。
「うーん、今は、あの人に頼るしかないっていうか…そんな感じだから…」
 そこまで口にして、ファーナは不安になった。もしカティスが居なくなったら、どうすればいいだろう?自分の立てた目標が居なくなるということ。カティスを見張って、悪いことをするならそれを止める、それが目標。それが旅の目的。帰る家が無い自分の、唯一の拠り所。
 突然、胸が締め付けられるような、切ない気持ちでいっぱいになる。あの時胸に去来した必死な想いは、自分の立場を失う事への恐怖だったのか、それとも、オルバが言うような、彼への秘かな思慕だったのだろうか。
「ファーナ…?ごめん、私なんかマズイこと言ったかな?」
「え?」
 オルバが心配そうにファーナの顔を覗く。
「だって、泣きそうなんだもん。む、むしろアイツのこと嫌い??」
 ファーナが顔を真っ赤にしてぶんぶんと首を横に振った。
「ち、違うの!何か、そうじゃなくて…うーん…分かんない…」
 ぎゅっと強く、ファーナは毛布を握って俯いた。
「ファーナ…」
 オルバがどうしようか困っていると、不意にドアがノックされた。その音に、オルバは振り返る。
「?メアリーさん?」
「入っていいかい?」
 オルバがふとファーナの方を向く。ファーナが顔を上げてこくりと頷いたのを確認して、オルバは返事をした。
「いいよ」
 ドアが開かれると、メアリーと一緒にラークの姿もあった。金の長い髪を、今日は緩く一本で結んでいる。近場に出かける時のラフな格好だ。
「先生…!」
「ファーナの様子を見たいってね、わざわざ来てくれたんだよ」
 ファーナと目が合うと、ラークは軽く微笑んだ。ファーナもそれに答えるようにふわりと笑う。
「大丈夫そうだな」
「はい。先生やティオや…皆のおかげで。まだ熱は少しあるけど」
 以前と同じく、穏やかに話す二人を見てから、メアリーはオルバに話しかけた。
「オルバ。ちょっと買い物頼まれて欲しいんだけど」
「え?あ、はーい!じゃあラーク様、ごゆっくりっ」
 お粥が入っていた土鍋を持って、オルバはそそくさと部屋の外へ出る。メアリーは残ったラークに声を掛けた。
「これでいいかい?ゆっくりしてきなさいね」
 メアリーもそのまま退出して行った。ドアが閉められ、しんとした空気の中、ファーナとラークの二人だけが残される。
「…えーと、先生?」
「二人で話をさせて欲しい、と頼んだんだ。これでしばらくは誰も来ない」
 ラークはそれまでオルバが座っていた椅子に腰掛けた。手足を組んで、ファーナを見る。
「…さて、今日はお前に質問攻めをされるつもりで来た。今まで旅をしてきて、お前は知らなくてもいいことまで知ってしまっただろうし、きっとこれから知らなくてはならないこともある。…まあ、私にも答えられないことが多いだろうがな」
 その言葉に、ファーナの顔が明るくなった。
「本当?」
「ああ。嘘は吐かない」
 穏やかな表情で肯定するラークを見て、ファーナは心の底から喜んだ。そういう話はしてくれないものだと思っていたから、余計に嬉しかった。

 心躍るような気持ちを抑えながら、昨日の出来事や、今まで旅してきたことを思い出す。カティス本人でなければ解らないだろう謎も多く、質問をひねり出すのに少し時間がかかった。
「そうだ…、先生とカディってどんな関係なの?昨日、『監視して裁く』とか言ってたでしょ?光と闇なら、何かあってもおかしくないなあとは思ってたけど」
 相当前から気になっていたことだった。そして、気にしていた通りに、昨日ラークはカティスに刃を向けていた。
「ああ。…あれは、天界にまだ居た頃から続く、一族同士の約束なんだ。天界を統べる、闇の力を持つ白銀竜…彼らが道を外した時は、光の力を持つ黄金竜がそれを糾す。…いつの頃からかも解らないが、そんな約束がずっと続いている」
 ファーナが目をぱちくりさせる。貴族階級だとは聞いていたが、そこまで偉い血筋だとは全く思えなかった。
「え?天界を統べるって…。カディって王子様とかなの?!嘘だ、信じられない!あんなに口悪いのに」
「違う。…アイツは…当時の家系図のどこにも載ってない。多分…『守人』だったからだと思うが…」
「『守人』…?」
 また知らない言葉に出くわして眉を顰めたファーナに、ラークは一瞬、困惑した表情を浮かべた。
「…そうか、アイツはお前にまだそのことを言っていなかったのか…。まあいい。天界には、他の世界と繋がる『門』があって、その管理者のことを『守人』と言った。だが、異世界との行き来は禁止されていて、異世界の存在を含め、余人には知られてはならなかった」
「それじゃあ、管理人さんなのに、カディはその決まりを破って、この世界に来たのね…」
 『堕天使』と天教世界で言われる訳だ。ファーナは自分の犯したタブーを、無意識のうちにカティスに重ねてしまっていた。
「そう、そしてそこには悪意があった…そう伝えられている。だから、天界では彼を討伐する軍が組織され、この世界へやってきた…後は、お前の知っての通りだ」
 ファーナは少し俯いて考え込む。沈黙が少し続いて、思わずラークがファーナの様子を窺った。
「どうした?」
「…ずっと引っかかってるの。カディは前に、『この世界を壊す』のが目的だって言ってた。けど、それならどうして人助けしたりとかするのかなって。昨日も言ったけど、そんなに悪い人じゃないの。本当の、カディの目的って何だろう…。本当に、悪意なんてあるのかな?」
 こんなことをラークに聞いても、答えは返ってこないのは承知の上でファーナは尋ねた。自分の感じたことは、絶対に間違ってはいないと確信しているからこそ、昨日カティスと対峙したラークには、一緒に考えてもらいたかった、というのが本音でもあった。
 ラークはしばらく考えて黙り込んでいたが、意を決したかのように口を開いた。
「そうだな…。やはり…言っておくべきだな。お前の疑問の答えにはならないかもしれないが」
「先生?」
 ファーナが首を傾げる。
「『天使』の絵、覚えているか?」
「え?うん、もちろん…。凄く気になる絵だったし」
 不意に、今までとは全く違う話題になってファーナは戸惑った。博物館に置いてある、大満月を背にして逆光で黒く描かれた『天使』――。天教で言う『天使降臨』を描いたおめでたい絵のはずなのに、感じる印象は全くの逆、という不思議な絵だ。留学中、ファーナはその印象の正体を探ろうとしていたが、ついに解明できないまま、カルディアへ帰国してしまったという経緯がある。
「実は…あの絵には、作者が付けたらしい本当の表題がある」
「えっ…、何それ、また…」
 不満を口にしようとしたファーナの言葉にかぶせるように、ラークは言葉を続けた。
「…どうしても公表できない理由があるんだ。だが、今のお前には教えられる」
 ここでラークは一拍置いた。ファーナは固唾を呑んで次の言葉を待った。
「あの絵の本当の題は『堕天使』という。…表に出せないだろう?」
 その言葉にファーナは目を見開いた。今まで知識としてあったことの真逆を言われ、しばらく言葉を失った。
「それって…カディのこと…?」
「…確実なことは何も解らないが、状況証拠だけ積み上げれば、恐らくそうなのだろうと、私は見ている。描かれた場所は反天教国のフォーレス…天使戦争の際には、この世界に来た竜人の干渉を拒んでいる。その一翼を担ったのがヤツだった、ということならば、何の不思議は無い。…その事実が、どういうわけか後世には伝えられていない、というだけでな。あくまで私の推測の域を出ないが」
「なるほど…。何かそれ、納得できる」
 こくこくと力強くファーナは頷く。
「でも、あの絵からは、あまり感謝とか、そんな感じを受けなかったな…。切なくて、胸が苦しくて…。もっと深い、何かがあるんだと思うけど…」
 目を閉じて、ファーナは胸に手を当てて思いを馳せる。もし仲間と呼べる存在の人が作者なら、カティスの境遇を知った上で描いたのだろう。歴史で伝えられてきている以上の『真実』がそこにあるのに、もやがかかったかのように見えてこない。もどかしい気持ちで胸が一杯になる。
「きっと、ヤツと旅を続けていけば、その答えにも…ん?」
 不意に部屋のドアが開けられた音がした。はっとファーナは目を開け、ラークと二人、音の鳴った方へ目を向けた。
「…んだよ、来てたのか、センセ」
 現れた人物の姿を見て、二人は言葉を失ってしまった。今まで話題にしていたカティスがいる。いくらなんでもタイミングが良すぎて、部屋の外で一部始終聞いていたのではないかとファーナは勘繰ってしまった。
「ああ。言っただろう?様子を見に行くと」
 ラークは努めて冷静に、室内に入るカティスに声を掛ける。カティスは少し二人と距離を置くように、壁に背を預けて腕組みをした。
「で?どうなんだよ、病状は」
「ぜ、全然元気っ!」
 ファーナがどぎまぎしながらカティスの問いに答える。
「…センセに聞いてんだけど、俺は」
「あっ…」
 かあっと顔を赤らめて、ファーナは下を向いた。さっきの話の直後だからか、話すのに緊張する。
「予想以上に回復は早いな。多分、ティオの薬のお陰だろう。明日には全快していると思う。…さて、話し相手も帰ってきたことだし、退散するとするか」
 そう言うと、ラークはゆっくりと席を立った。
「えっ、先生…帰るの?」
「ああ。色々と準備することもあるからな」
「…準備?何の?」
 ファーナが首を傾げる。
「何って、旅支度だが…」
 その言葉に、一早く反応したのはカティスの方だった。
「…そんな気はしてたが…やっぱマジで付いてくんのか…」
 明らかに嫌そうな顔をする。ファーナの方は逆に顔が明るくなった。
「これからは先生も一緒ってこと?!」
 思ってもいなかった事態にファーナは心底喜んだ。気心の知れた人物が傍にいてくれることほど、心強いことは無い。
「ああ。…ヘディンにも頼まれていることだしな」
 その言葉ではたと昨日のことを思い出した。
「…お兄ちゃん、私のこと、怒ってたりしてないの…?だってあの時、剣を向けたじゃない。先生だって」
「あれは芝居だ。ヴィオル殿を騙しつつ、お前を逃がすためにな。…上手いこと、それに乗ってくれた奴もいたし」
 ラークは人が悪そうな笑みを浮かべ、目線をカティスの方にやった。
「礼の一つぐらい貰いたいもんだな」
 そう言うと、姿勢は変えずに目を閉じた。ファーナは二人を見比べた。目頭が熱くなる。こんなことになっても、兄は自分を愛してくれているということに、感謝の気持ちが溢れ出てくる。
「…良かったあ…」
 顔をしわくちゃにして泣き始めたファーナを見てから、ラークはカティスに目をやった。
「後は頼む」
「へいへい。…今度こそ、ちゃんと仕事しろよ、『監視者』さん」
 ふっと笑みを浮かべて、ラークは退室した。

 少し経ってから、落ち着いてきたファーナの傍に、カティスは面倒くさそうに近づいた。
「ご、ごめん…何か、胸のつかえが取れて」
 ファーナは落ち着こうとして、ふうーっと長い息を吐いた。
「…そりゃ、良かったな」
 そのまま見上げてファーナはカティスを見つめる。先ほどまでラークと話していた内容は、多分カティスに告げるべきではない。しかし、カティスに抱く想いは、これまでとは全く違うものになっていた。
「何だよ」
 視線に気が付いてカティスが上から見下ろして睨む。しかしファーナはひるまなかった。
「…前、言ってたよね。『お前も堕ちて、俺の所まで来てみろよ』って」
「ああ。…その気になったのか?」
 人を小馬鹿にするような、そんな笑みをカティスは浮かべた。
「うん、その気になった」
 カティスの表情が一瞬凍ったのを、ファーナは見逃さなかった。
「カディが何を見てきて、聞いてきて、今ここにいるのか。知らなきゃ、いざって時に『何』を『どうするか』なんて、決められないもの。なら、カディのところまで堕ちなくちゃ」
 真っ直ぐにファーナはカティスを見つめる。カティスの顔からは先ほどの笑みは消え、ゆっくりとファーナの左頬に右手を伸ばして顔を近付けた。
「…その覚悟、揺るがないな?」
 緑の透き通った瞳がファーナの紅い瞳を射抜く。以前も同じような格好で誘惑されそうになったが、今度は自分の意思だ。きっとその瞳を逸らす事だってできるだろう。だが、自分もカティスと同じ景色を見たくなった。ラークが語ってくれた、あの絵の裏にある『真実』は、きっとそこにあるはずだから。
「揺るがない。私の心で感じたことだもの」
 しばらくそのまま二人は見つめ合った。やがてカティスは一度固く目を瞑り、右手を頬から離した。
「…解った。俺もそのつもりでこれからは接する」
 開かれたカティスの目に、厳しい光が宿ったのを見て、ファーナはドキリとした。
「さっさと治せ。先は…フォーレスまではまだあるんだからな」
 そのまま、カティスは部屋を出て行く。一人部屋に残されたファーナは、呆然として左の頬に手をやった。もしかしたら、何か大きなものを失ったのかもしれない。それと同時に、本来なら得られるはずの無い何かを得たような気分になった。
 速くなった心臓の鼓動は、しばらく鎮まらなかった。



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