第8話
意識が遠く、遠く遠ざかっていく。
外の音も、光も、だんだん感じられなくなってくる。
――なのに、何かが聞こえてくる。
不思議と優しくて、どこか懐かしい言葉。
…一体、どこで聞いたんだろう。
このまま飛んで街へ降りるのは目立つと判断し、カティスは街中に程近い山道で降りて歩くことにした。時刻は昼時。そもそも人一人担いでいる状態で街中を闊歩するのも躊躇われる。どうしたものか、と思案していた時だった。
「――っ!」
先の下り坂から、人が登って来る気配がした。しかし、行くも進むも一本道だ。警戒しながら、平静を装って普通に歩く。
やがて見えたのは、ファーナより幾分か年上の青年だった。日差しを避けるためか、頭には白い布を巻き、ところどころから短い茶色い髪が覗いて見える。籠を背負っており、山菜取りにでも来ているかのような風貌だ。
すれ違い様に会釈をしようと、青年が顔を上げた。カティスと目が合い、その後、背負っているファーナに気付いて目を丸くした。
「―え、あ、ちょっと待って下さい!ファーナ…!貴方の背負ってる女の子…ファーナじゃないですか?!」
しまった、と内心でカティスは呟いた。ファーナはかつてこのエルガードに留学していたと言っていた。知り合いがいてもおかしくはないのだ。呼吸を整えて、すれ違った青年に振り向き直った。
「どうして…、行方不明になったって前布告が…」
「…家出、だとよ。だが今はそれどころじゃねぇんだ。さっき魔獣に襲われちまって、毒を食らったみたいでこの様だ。今は俺の魔法で応急措置はしてあるが…」
以前にも彼女自身が使っていた言い訳と状況を、カティスはさらりと述べる。すると青年の顔が強張った。
「ちょ、ちょっと降ろしてもらえませんか?容態を看るので」
「?お前は…医者か何かなのか?」
訝しげな顔をしたカティスを見て、青年ははっとした。
「あ、申し遅れました。僕はティオって言います。ファーナとは同じ下宿の仲間だったんです。…一応、医者を目指している身なので」
「…そうか、それは渡りに船だな」
カティスはファーナを背から降ろした。地面に横たえるが、相変わらず青白い顔で息は細く、容態は変わっていない。
「…これは…」
ティオが厳しい表情で呟く。背負っていた籠を下ろし、数枚の薬草と小さなすり鉢を取り出した。
「どうなんだ?」
「…やっかいですね。もしかして、大きな蜂型じゃなかったですか?」
話しながらティオは慣れた手つきで薬を擂り始めた。
「ああ。有名なのか?」
「強毒性という意味では、そうですね。昔それで、尊敬していた方を失いました」
ティオの声が暗くなる。
「お前のその薬は…」
「一応、解毒剤を調合しているんですけど、気休めにしかならないですね。とにかく街に下りないと」
すり鉢に水を入れて、ファーナの口元に持っていく。
「飲んでくれるといいんですが…。あ、よかった」
ファーナの喉がごくりと上下する。ティオはほっと一息吐いて立ち上がった。
「行きましょう。ここからはそんなに時間はかかりません。急がないと…」
カティスはその言葉を聞きながら、再びファーナを背負う。
「なるべく、人に見つからないようにしたいんだが」
その言葉に、一瞬ティオは疑問を持ったが、すぐに意味を理解した。
「大丈夫です。ファーナのあの布告ですよね。ここでは出た後すぐに取り下げられましたから、連絡する人はいないと思いますよ」
「取り下げ…?どういうことだ?」
カティスは訝しんだ。
「いくら中立国だからって、利益にも毒にもならないようなものまで干渉しないもんなのか?…こいつが見つかって、エルガードに何か問題でもあるってのか?」
ティオはしばらく、うーんと唸ってから答えた。
「何もないと思いますけど…それは長老会の判断ですから。…まあ、慎重を期するほうが無難ですね。僕の下宿先まで、なるべく見つからない道を行きましょう」
下宿「アドネス」。
家庭的な雰囲気のある、初老の夫婦が営む、こぢんまりとした留学生用の下宿である。
もう陽が落ちかけていた頃、その下宿のドアが開いた。台所にいた女主人のメアリーは、ダイニングに出てきてそのドアを開けた人物を迎えようとした。
「メアリーさんっ!」
「いつもより早いねぇ、ティオ。…と、そちらは?」
メアリーはティオの後ろにいる銀髪の青年と、彼が背負う赤毛の少女に見て、目を見張った。
「…ファーナじゃないか!行方知れずって前…」
「話は後!ファーナの部屋、まだ空いてましたよね?すぐ使えますか?」
「え?ちょっと待ってね、オルバ!」
メアリーは上の階に上り、部屋にいる下宿生を呼んで、あれこれ準備をさせる。直ぐに階下に戻って来て、ファーナの顔を覗き込む。
「…まさか、この顔色…」
「魔獣の毒にやられた。今はこの兄ちゃんの解毒剤で何とかごまかしているが、根本的には解決してない」
その言葉にメアリーの表情が険しくなる。
「いいよ、メアリーさん!」
上階から、女性の声が聞こえた。
「はいよ!じゃあこっちに来ておくれ」
焦るような足取りで、メアリーは階段へ向かう。カティスもそれに続き、二階の一室に通された。整えられたベッドにファーナを横たえると、カティスは一つ息を吐いた。ファーナの顔色は変わらず青白いまま、息は細い。
「これじゃあ、リアンさんの時と全く同じじゃないか」
メアリーが震えた声で呟いた。
「そうなんです…。襲ってきたのも、多分」
「…リアン?そいつがさっき言ってたお前の尊敬してた人か?」
カティスが顔をしかめてティオに聞く。
「ええ。当時このエルガード一の魔術士だった方です。例の魔獣が大量発生して、討伐しに行ったんですが…。って、話してる場合じゃないですね。僕、学院に薬が無いか当たってきます」
小走りにティオは下宿を出て行く。それと入れ違いで、くせのある金髪の少女が部屋に入ってきた。
「お湯とタオル、持ってきたよ、メアリーさん」
彼女も不安そうな表情を浮かべていた。桶とタオルをベッド横のチェストの上に置くと、冷たいファーナの手を暖めるように握って目を閉じた。
「ファーナ…頑張ってよ。こんな再会、ないじゃない…」
今にも泣きそうなオルバの肩を、メアリーがポンと叩く。
「今ティオが学院に行ったわ。何か…きっとあるはずよ」
オルバはそれを聞いて少し落ち着いたらしい。ベッド際から離れて、ふとカティスの方を見る。
「…貴方が、ファーナを…攫ったの?」
「…だったら?」
カティスはこんな状況にも関わらず、傍目には動じてないように見えた。その態度が、オルバの怒りを買った。
「それなら、私は貴方を許さない!せっかく、せっかく大好きなお兄様と一緒に暮せるようになったのに!その幸せを壊して、挙句死なせてしまうのなら…!」
「その幸せを破ったのはコイツ自身だぜ?コイツは家出だよ。俺はたまたま居合わせただけだ」
え、とオルバは言葉を詰まらせた。
「そんなわけ無いわ!だってファーナは…」
「知るか。起きたら聞いてみろよ。多分理由は誰にも言わねぇだろうけどな」
そう言って、カティスは部屋の入口へと歩き出す。
「どこに行くのよ?!」
「…あの兄ちゃんがもし、解毒剤を手に入れられなかった時に備えて、もう一つの手段を用意しておかなきゃならねぇ。…メアリー、その魔獣にやられて死んだのはリアンって奴で…間違いないんだな?」
「あ、ああ、そうだけど…」
そこでメアリーとオルバははっとした。目の前の青年の向かう先は分かったが、何故そのことを知っているのだろう。
「んじゃ行って来る。なるべく早めに遣すから、ちょっと待っててくれよ」
下宿から早足で5分程のところにある、三階建ての古びた建物の前で、カティスは足を止めた。壁には蔦が這い、人によっては一瞬おぞましさを感じるような外観だ。表には小さく、「エルガード歴史博物館」と書いてある看板がかけられており、その上から更に『クローズ』の札が掛かっていた。
カティスはそれを一瞥してから、慎重に扉を開く。ギィイ、という重い音と共に、薄暗い室内に橙の夕日が射す。その光が照らす先に、一人の人影が見えた。
「――来た、か」
その人影の居る部分の燭台にだけ、ふっと明かりが灯される。金の髪が、その光を受けて闇に煌く。カルディアで仕掛けてきた魔術師――ファーナが『先生』と言っていた男が、そこには立っていた。
「…まるで俺を待っていたみたいじゃねぇか。クラーテ家の…いや、黄金竜の末裔…ラークって言ったか」
ラークの元へカティスは近づく。足音がいやに室内に響いてくる。ラークは無表情のまま、その場から動かなかった。
「南へ行くなら、この街を必ず通ると思っていた。それに…血が、騒ぐのでな。…ところで、わざわざここを無視せず現れた理由は何だ?」
「アンタと姫さんの兄貴の思惑通り、姫さんは生かしてやってる。…だが、さっきここに来る途中で魔獣に襲われてな。アンタも知ってるだろ?でかい蜂みたいなやつさ」
ラークの表情が強張る。
「…先代が死んだ原因。なら、アンタはそれを治せるスペルを組んであるはずだ。…いや、アンタじゃなくても、精霊共が知ってるはずだ。…そう思ってな」
ラークが値踏みするような目でカティスを見る。信用されてないのだろう。カティスには重々承知のことではあった。
「…成程、事情はよく分かった。確かに…スペルは組んである。だが…それをそのまま信じる訳にはいかんな」
「!アンタ…妹同然の教え子の命は後回しなのかよ!?」
「『そういう物言い』が信用ならん。…『堕天使』と言われた貴様が、他人を慮るだと…?」
ラークが右手を広げる。カティスはその動きにつられ、腕の先に架けられていた絵を見た。
「――っ!」
カティスは息を詰まらせた。大満月の逆光に照らされ、黒く描かれた『天使』の絵。驚きの表情を隠せないカティスを見て、ラークは眉間に皺を寄せた。
「たった一人、貴様は『何を成す為』この世界へと来た!貴様の『真実』…『裁かせて』もらうぞ!」
その言葉と同時に、空気が、景色が変わった。何も無い、広い空間が目の前に開けた。
「…たいした詠唱も無しに空間転移か…。随分と高位の魔術師様で」
茶化すようにそう言って、カティスは剣の柄に手を掛ける。
「この程度なら、『守人』でなくとも時空は操れる」
右手に光の刃を作り出し、ラークも構えた。
「へえ…。ちゃんと勉強してんだな。あの腑抜けの『監視者』の一族も、地に堕ちてから火が点いたか」
「戯れ言を…。その口、二度と利けないようにしてやろうか!」
ラークがカティス目がけて斬りつける。予想外の速さに、カティスは反応が遅れた。かわしたが、頬に切り傷が出来た。
その血を指で取り、舐める。
「…上等だ。やってやろうじゃねーか」
気が付くと、見慣れた天井がそこにあった。身体がとても重くてだるい。一体何をしていたんだっけ。
「…?…あれ…、ここ…」
ファーナの言葉に、ベッド脇で看病していたオルバが気付いた。
「ファーナ!気が付いた?」
ファーナはオルバの姿を見て驚き、目を見開いた。ゆっくりと身体を起こそうとするが、具合が芳しくなく上手くいかない。
「うっ…」
「無理しないで、ファーナ。寝てないと」
言われるがまま、ファーナは再び布団の中に戻った。顔だけをオルバの方に向けて、疑問をぶつける。
「何でオルバが?それにここ…」
「アドネスのアンタの部屋だよ。魔獣にやられて、毒が全身に回って、ずっと意識を失ってたの」
「…魔獣…そうだ私、おっきな蜂の魔獣に刺されて、それで…」
ファーナは額に手をやって、思い出そうとする。それ以上、思い出せたことは、何か、安らぐような声が聞こえたことだけ。
「具合どう?大丈夫?」
「うん…なんか、すごく身体だるくて重い…。グラグラするし、吐き気するし、寒気もするし…」
そこでふと、今までずっと一緒だった人物の姿が無いことに気が付いた。
「…ねえ、カディ…あの、銀髪の男の人、一緒だったよね?どこにいるの?」
「ああ、あの銀髪の人?ラーク様のところに行ったけど…」
その言葉を聞いて、ファーナは途端に表情を曇らせた。
「えっ…」
「だ、大丈夫よ。呼びに行っただけだから、すぐ戻ってくるわよ」
ファーナの不安げな表情に、オルバも不安になった。いつもなら、嬉しそうな笑顔を浮かべてくれるのに、真逆の反応だ。いつの間にか仲違いでもしたのだろうか。
「だ、だめ…。先生は駄目…。きっと私のことも、カディのことも殺そうとする…」
「え??あんた今なんて…」
仲違いどころではない物騒な言葉にオルバは顔をしかめる。しかしそんなことはお構いなしに、ファーナはむっくりと起き上がった。
「…私、先生のところに行って来る!」
無論、オルバはそのファーナを止めようとする。
「ふぁ、ファーナ!そんな身体じゃ無理よ!っていうか、殺されるってどういうことよ!」
「身体は大丈夫!何とかなる!」
そう言うと、手近にあったサンダルを履き、服も着替えず、ファーナは飛び出していった。
「ファーナっ!」
ファーナには制止の声など聞こえなかった。真っ直ぐ、博物館へと走る。体調の悪さは、微塵も感じなかった。
(昔言ってた…。先生は、『堕天使』のことが、元凶が憎いって…!)
光刃が容赦なく降り注ぐ。剣を抜いたまではいいが、カティスは間合いを詰められずにひたすら回避に徹底していた。
「ちぃっ!」
走り続けて流石に息が上がってくる。接近戦に持ち込めないという、分の悪い状況だけではない。どう考えても相手の能力が想像以上なのだ。詠唱から発動までの時間の短さ、威力、どれをとっても混血の進んだ竜人とは思えない。
「混血の癖に…。黄金竜の血統ってのはどうなってんだ…」
思わず洩れたカティスの呟きに、ラークが答えた。
「…先祖返りさ。お陰で、生まれながらの殺人者…『呪い子』だ」
「!」
その時、一瞬隙が出来た。柄を握りなおして一気に間合いを詰める。
『氷瀑!』
剣を振り下ろそうとしたその時、目の前に氷の盾が現れた。剣がはじき返された勢いで、カティスはバランスを崩して着地した。距離はまた幾分か離れてしまった。
「…成程、それなら納得だな。その力も、俺に対するその憎悪も」
息を切らして立ち上がり、挑発するようにニヤリと笑みを浮かべた。
「こんな悲劇は…いや、あの戦争の惨劇も、この五百年間で生まれた悲劇も、貴様がこの世界への『門』を開いて堕ちたことが原因だ!多くの同胞を殺し、この世界に混沌をもたらした貴様は…、再び目覚めた今、更なる悲劇をこの世にもたらすつもりか!」
ラークの言葉に、カティスは苦笑いを浮かべた。
「だとしたら、どうする?」
「『裁く』までだ!」
ペンダントの水晶を握り、ラークは詠唱を始めた。カティスはそれを一瞥し、小さく舌打ちする。
(さっきまでのは無駄撃ちじゃなかったってことか。精霊数が圧倒的に不利だな…反属性の俺の術じゃあここから巻き返しできない…)
しかも、これほどの手練れが詠唱するということは、それだけ強力な術と言うことだ。どうにかしなければ、本当に命に関わる。
『我が血に依りて来たれ、裁きを下す光の賢者よ…』
(ちっ、ヤな感じのスペルだな…。…こっちならどうだ!)
カティスも剣を構えて詠唱を始める。
『時と空を統べし移ろいたる者達よ、我が名と血の元へ集え…』
(…この詠唱、まさか)
ラークはカティスの詠唱に疑問を持ちつつ、続ける。
『闇を裂き、闇を裁け。世に暁光をもたらし給え…我と共に下さん、光の鉄槌!』
ラークの術の発動が速かった。巨大な光線が、カティスめがけて飛んでいく。
(ちっ…間に合わねぇかっ!)
大きな爆発音が、室内に響き渡った。
足元が揺れた気がした。ファーナは丁度、博物館の前に着いたところだった。
(地震…?)
しかしそんなことに構ってはいられなかった。躊躇無く、ファーナは扉を開けた。既に客の姿は無く、今にも落ちそうな夕日の淡い光が、静寂に包まれた室内を細々と照らしている。
「先生―!カディ!いるなら返事してー…!」
そう大きな声で呼びかけながら奥へと進んでいく。すると、奥からランプと雑巾を持った茶髪のツインテールの少女が現れた。白いフリル付きのエプロンをしており、どうやら博物館で手伝いをしている学生のようだった。
「あの…申し訳ないんですが、今日はもう閉館で…お連れの方とはぐれたんですか?」
ファーナより2歳ほど年下だろうか。背の低いその少女に目線を合わせるように、ファーナは屈んだ。
「ラーク先生、どこにいるか分ります?」
「先生?えーっ!ラーク様にご師事なさってたんですかぁ!」
何故か少女は目をキラキラと輝かせて、全く別のことに感激している。
「あー…えっと、それはいいですから!もしくは、銀髪の男の人…見かけてませんか?」
少女はうーんと唸り、思い出そうとする。
「いいえ、見ていませんね。あたし、ついさっきまで上の階にいたんで、その間に階下に行かれたのかも…」
下の階。ファーナはこの建物の下にもいくつかフロアがあることを思い出した。
「…さっきの揺れ…。分かったわ、ありがとう!」
少女を置いて、奥の執務室へと向かおうとしたが、呼び止められた。
「あ、そっちは関係者以外…」
ファーナは振り返って、告げる。
「…大切な人達が、ケンカしてるかも知れないの。だから、止めに行かなきゃ」
「それって、ラーク様も?」
「そう」
それを聞いて、少女は一念発起した。
「わ、私も行きます!」
「駄目よ、危ないかも知れない。ここでお手伝いか何かしてるのよね?なら知ってるでしょ?ラーク先生の強さ」
しかし少女は胸を張って、言う。
「あたしは一度死にかけてますから、へっちゃらです」
それは違うでしょとツッコミを入れようとしたが、多分引き留められないと思った。
「…分かったわ。でも無理はしないでね?私はファーナ。貴女は?」
「コリィです。ラーク様に命を救われて、それからこうしてお手伝いを無理矢理させて貰ってますっ」
胸を張って答えたコリィに、どおりで、と、心のどこかでファーナは独り言ちた。
視界が晴れてくる。しっかりと佇んでいる男の影を確認して、ラークは息を飲んだ。
「…正直、恐れ入った。今のが『守人』の本領、というところか…」
視線の先には、寸でのところで光線を留めるカティスの姿があった。勿論、無傷である。
「精霊の時を止めてしまうとはな…」
『汝らが在るべき場所へ移ろえ』
そうカティスが声を掛けると、たちまちその光線は消えて無くなった。剣を下ろし、腰に手を当てて、カティスは口を開いた。
「いい加減にしろよ。折角アンタらの意向を俺が飲んでやったってのによ、アイツが死んだら元も子も無いんじゃねぇのか?俺の始末なんて二の次だろうが」
「貴様を倒したら行ってやる」
ラークは手に氷の剣を召還し、カティスに向かって駆け出した。カティスは溜め息をついて構える。
「…ったく、強情なヤツだな…」
左からの一閃を受け流す。更に素早く切り返してきた一撃をかわし、こちらの剣を振り下ろす。しかしそれも受け止められてしまった。
(くそっ、このままだとまずいな…)
カティスは次第に焦りを感じ始めていた。
「…あたし、ラーク様に助けて貰った時から、感じてたことがあるんです」
古びた石製の螺旋階段を、ランプを照らしながら降りるコリィが、ぼそっと後ろのファーナに話しかけた。
「とても綺麗なのに、心の中にはとてつもない闇を持ってるって…」
「どうして?」
二人の声は暗い空間にこだまして響く。それが一層、二人の不安を掻き立てさせる。
「何か、すごく遠くを見てたの。虚ろな顔をして…。ほら、強い陽差しって、建物に当ったらその分濃い影を作るでしょう?…何か、そんな人だなって…」
言い得て妙だとファーナは思った。五百年前の歴史を語るときに見せた、恐ろしいと感じるまでの憎悪を見せた時の彼は、まさしくそうではなかったか。
暗い中を照らすランプの光。それはまた、壁に二人の影を色濃く作り出している。時に光は揺れ、その度影もまた揺れる。ファーナは、コリィの言葉を反芻しながら、その影を見つめて階段を降りた。
やがて目的の部屋の前まで辿り着くと、岩が壊れるような音が聞こえてきた。
「―…ここみたいね。危ないから、私が先に行くわ」
先を歩いていたコリィを後ろにやり、ファーナは鉄製の扉に手を掛けた。
カティスの手から、剣が離れる。宙を舞い、とても手を伸ばしても届きそうに無い場所に落ちてしまった。
「今度こそ…チェックメイトだな」
カティスの眼前に氷の刃が向けられる。しかしカティスは表情を変えない。
「アンタは、何のために俺に刃を向ける?俺を殺せば、世界が平和になるとでも思ってんのか?」
「…そうだな。貴様が今後この世に何かをしでかすことは無くなるだろう」
その言葉にカティスはふっと笑った。
「…アンタも、何も知らないんだな…。いや、知らなくて当然か」
「何…?」
ラークの顔に、怒りの表情が浮かぶ。歴史研究なら、世界中の誰よりも第一人者であるという自負がある。それを真っ向から否定された気分になった。
「…やってみろよ。自らが『裁いた』その結果、後悔しない自信があるならな…!」
「何を訳のわからないことを…。ならば、望みどおりに…!」
ラークが刃を胸に突き刺そうとしたその時だった。突然、左手の壁が音を立てて開き、少女二人が駆け出してきた。
「だめっ…!」
その声の方向に二人は顔を向け、一様に驚いた。
「ファーナ…お前」
「コリィっ!何故お前が…」
二人が驚いている隙に、ファーナはカティスの目の前に両手を広げて立ちふさがった。カティスを庇うように。
「ファーナ、どういうつもりだ。まさかそいつに情が移ったか」
ラークは刃を下げなかった。そんなラークを睨んで、ファーナは言う。
「…先生にはさせない。これは私の責任だもの。私が禁忌を犯したことは、私が何とかする。だからそれまで誰にも手出しなんかさせないわ」
ラークもカティスも目を見開く。嘲るような冷たい笑みをラークは浮かべた。
「…お前にそいつが御せる訳がない。諦めろ」
「嫌よ。それなら私はどうすればいいの?汚名を着たままこれからずっと、生きることになるの?私には帰る場所はない。…そうでしょ?だから私は、無理でも私自身の手で決着を付けたい。無理ならそこでカディに殺されればいいわ!」
それを聞き、ラークは刃先を下げてファーナの方に近づいた。手を顔に差し出そうとしたのを見て、ファーナはきつく目を閉じた。
(殺される――)
しかし、ファーナの想像とは真逆で、ラークは額をこつんと叩いた。
「えっ…」
ファーナは目を見開いた。そこには、この国に留学していたころに見ていた、優しいラークの顔があった。
「馬鹿か。死んでしまえば、その責任も果たせなくなるだろう?ヘディンが悲しむぞ」
「…え?…だってお兄ちゃんは」
自分を殺そうと、剣を向けていたじゃない。
そう告げようとしたが、ラークの優しい眼差しがその言葉を封じた。でも、それならどうしてあんなことをしたのだろう。
「…だから私がここにいる。闇の対極、光の力を持つものだけに与えられた特権。彼の者を『監視』し『裁く』力…。私だけが、この男の罪を裁くことができる」
ファーナの肩をそのまま自分の方にやり、奥にいるカティスに近づこうとする。
「!先生!」
ファーナが叫んで呼び止めようとする。しかし、彼の動きを止めたのは、右手を掴んだコリィだった。
「コリィ…何のつもりだ。部外者のお前に止められる筋合いはないぞ」
「そうかもしれません。でも、私、この人がぱっと見て悪い人には見えないんです。この人の罪ってなんですか?そしてどうしてラーク様だけが裁けるって言うんですか?」
ふうと一息、ラークは溜め息をついて、宥めるように言う。
「…昔、この世界を滅茶苦茶にした張本人だからだ。こいつは強大な力を持っていて、今またこの世界を滅茶苦茶にするかもしれない。…こいつを止められるのは、私の一族だけなんだ」
「反省してるかもしれないですよ?そして、今度はいいことをしようとしているかもしれません。それを見極めずに、ただ悪いからって決めつけるのって、ただの言い掛かりじゃないですか!」
「言い掛かり…だと」
その言葉に、ラークは表情を強張らせた。それに気がついて、ファーナが慌てて意見する。
「あのっ!先生、私ね、それを見極めたいって思ったの。見極めて、本当に悪いことをするのなら、その時どうにかしようって。今まで、そんなに悪さはしてないよ。むしろ、優しいくらい…」
「それを情が移ったと言わずして何と言うんだ、ファーナ?」
ラークは呆れたような口調でファーナをたしなめる。しかしファーナはかぶりを振った。
「違うの。情が移ったんじゃない。私が見てきて感じたこと。そして考えてること。…先生、いつも言ってたじゃない。自分で見聞きしたことだけが『真実』だって!カディは、悪いことしようとしてるのかもしれないけど、悪い人じゃない。…それが、私が見た『真実』よ!」
ファーナは、自分の言葉に嘘偽りはないと信じて疑わなかった。ラークの青い瞳を捉えて決して目線をそらさず見つめ続けた。
「ファーナ、お前…」
ラークの胸に、ファーナの真剣な表情が突き刺さる。ファーナは本気だ。自らの信念を突き通そうと一途になるところは、兄ヘディンとよく似ている。
(ファーナの見た『真実』か…)
ファーナの言葉を心の中で反芻し、ラークは氷の刃を消した。それまで大した時間は経っていないはずなのに、随分長いように感じられた。
「先生…?」
「…分かった。お前が見た『真実』…それを信じよう。…命拾いしたな、カティス」
後ろでむっすりとした表情を浮かべているカティスに、ラークは声を掛けた。ファーナはその言葉に安心して、ガクリと膝から崩れ落ちた。
「おい、ファーナ!」
「だ、大丈夫…。緊張がほぐれた、だけだから…」
眉間に皺を寄せて、痛みや辛さを耐えているような表情をファーナは浮かべている。顔色は相変わらず青白い。屈んでファーナの様子を窺うラークに、ファーナはしがみついた。
「…丁度いい。ファーナ、これを握っていろ」
ペンダントの石を、ファーナの手に握らせる。
『来たれ、光の王よ。我らが無念、晴らすために』
ファーナが握っている水晶から、まばゆい光が発せられる。
『彼の者の裡の邪なる影を、汝が威光でかき消し給え。彼の者の裡に満ちて、癒しをもたらせ給え』
ふわりと、優しい光がファーナを包む。苦しそうだった表情はやがて穏やかになり、安らかな寝息を立てて全体重をラークに預ける格好になった。
「だ、大丈夫なんですか?」
コリィが心配そうにファーナの顔を覗く。
「ああ。…2、3日経てば、体調も元に戻るだろう。アドネスに…」
階上からかすかに聞こえてきた声に、次の言葉は遮られた。
「ラークさまーっ!どこですかぁー!ファーナ、ここに来てませんかー?!」
「…オルバさんですね。あたし、先に上に行ってます」
コリィが小走りに部屋を出て行く。残されたラークとカティスは、互いに顔を見合わせた。
「…ほら、連れて行け。あまり長居すると、今度はお前が光の影響で倒れるだろう。二人も担ぐ力は私には無い」
ラークはファーナを持ち上げて、カティスに託そうとする。
「もうクタクタなんだけどな、アンタのせいで」
渋い顔をして、暗に拒否する。ふ、とラークは笑みを浮かべた。
「お前が攫って行ったんだ。最後まで面倒見ろ」
「元はと言えば、アンタらが押し付けたんだろーが…」
ちぇっ、とカティスは舌打ちして、しぶしぶ受け取る。
「念のため、明日病状を見に行ってやる。疲労もたまっているだろう。しばらくこの街に逗留しているといい。カルディアには通報しないからな」
「…偉そうだなぁ、アンタ…。ま、お言葉には素直に甘えるとするか」
ファーナを抱えてカティスはゆっくりと出口へと向かって行った。部屋に一人きりになると、ラークは長い溜息を吐いた。落ち着いた、と思った瞬間、ペンダントの水晶が淡く光った。
『ロストールの心配は、杞憂に過ぎた…と判断すべきかな』
ラークにしか聞こえない声なき声。光の精霊術で用いる言葉で、それに応える。
『…いえ、私はやはり…己の感情に流されていましたから。ファーナやコリィの言葉で少し頭が冷えました。この数週間、傍に居続けた者の方が『真実』に近い』
寂しそうにラークは微笑んで、首から提げている水晶を見る。
『…まだまだ、ですね、私は。あんな子供達に諭されるなど』
『それでいい。それが解っただけでも、充分だ。…ようやく、我らを行使するに値する精神を持てるようになったな』
ラークはその言葉の意味を理解できずにいた。しばらくの沈黙の後、その意味に気が付き、ようやっと口を開いた。
『…貴方がたには、これまでは当主として認められていなかった…と?』
無理もない、と心の中で反省する。それだけ己の妄執に駆られていたのだ。そのような心構えで、精霊達を行使することなど、行使される精霊達が嫌がるに違いない。
『忘れるな。我ら光の精は、邪念なく誠実な心を持ち、総てを公平に裁き、正しき道を示し、育む者。行使者たる者もまた、そうあらねばならぬ』
右手で水晶を固く握る。目を閉じ、静かにその声に応える。
『ええ…。肝に銘じます』
再び目を開け、虚空を見つめる。その顔には、晴れやかな表情が浮かんでいた。
9話